[0:06]蜘蛛の糸芥川龍之介 ある日のことでございます。 お釈迦様は極楽の蓮池の淵を、 ひとりでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
[0:24]池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ白で、 そのまん中にある金色の髄からは、 何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
[0:41]極楽は丁度朝なのでございましょう。 やがて御釈迦様はその池の淵に御佇みになって、 水の面を覆っている蓮の葉の間から、 ふと下の容子を御覧になりました。
[1:00]この極楽の蓮池の下は、ちょうど地獄の底に当って居りますから、 水晶のような水を透き徹して、 三途の川や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、 はっきりと見えるのでございます。 するとその地獄の底に、犍陀多と云う男が一人、 ほかの罪人といっしょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。 この犍陀多と云う男は、 人を殺したり、家に火をつけたり、 いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、 それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。
[1:49]と申しますのは、 ある時この男が深い林の中を通りますと、 小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。
[2:03]そこで犍陀多は早速足挙げて、踏み殺そうと致しましたが、 「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。 その命をむやみに取ると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」 と、こう急に思い返して、 とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
[2:35]御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、 この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。 そうしてそれだけの善い事をした報いには、出来るなら、 この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。 幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、 極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。
[3:12]御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、 玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、 まっすぐにそれを御下しなさいました。 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、 浮いたり沈んだりしていた犍陀多でございます。 何しろどちらを見ても、まっ暗で、 たまにその暗みからぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、 それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、 その心細さといったらないでございます。 その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、 たまに聞こえるものと云っては、 ただ罪人がつく微かな溜息ばかりでございます。 これはここへ落ちて来るほどの人間は、 もうさまざまな地獄の責苦に疲果てて、 泣声を出だす力さえなくなっているのでございましょう。 ですからさすが大泥棒の犍陀多も、やはり血の池の血に咽びながら、 まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。 ところが或る時のことでございます。 何気なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、 そのひっそりとした暗闇の中を、遠い遠い天上から、 銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、 一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ 垂れて参るのではございませんか。 犍陀多はこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。 この糸に縋りついて、どこまでも登って行けば、 きっと地獄からぬけ出すのに相違ございません。 いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。
[5:37]そうすれば、もう針の山へ追上げられる事もなくなれば、 血の池に沈められる事もある筈はございません。 こう思いましたから犍陀多は、 早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりつつかみながら、 一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。 元より大泥棒のことでございますから、 こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
[6:13]しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、 いくら焦って見た所で、容易に上へは出られません。 ややしばらく登るうちに、とうとう犍陀多もくたびれて、 もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。 そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、 糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、 さっきまで自分がいた血の池は、 今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。
[7:03]それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、 足の下になってしまいました。
[7:13]この分で登って行けば、地獄からぬけ出すのも、 存外わけがないかも知れません。 犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、 ここへ来てから何年にも出した事のない声で、 「しめた。しめた。」と笑いました。 ところがふと気がつきますと、 蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、 自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、 やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。 犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、 しばらくはただ、莫迦のように大きな口を開いたまま、 眼ばかり動かして居りました。 自分一人でさえ切れそうな、この細い蜘蛛の糸が、 どうしてあれだけの人数のお重みに堪える事が出来ましょう。 もし万一途中で切れたと致しましたら、 せっかくここへまで登って来たこの肝腎な自分までも、 元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。 そんな事があったら、大変でございます。 が、そう云う中にも、罪人たちは 何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、 うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、 一列になりながら、せっせとのぼって参ります。 今の中にどうかしかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、 落ちてしまうのに違いありません。 そこで犍陀多は大きな声を出して、 「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。 お前たちは一体誰に聞いて登って来た。下りろ。下りろ。」 と喚きました。 その途端でございます。 今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、 ぶつりと音を立てて断れました。 ですから犍陀多もたまりません。 あっという間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、 見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、 月も星もない空の途中に、短く垂れているばかりでございます。 お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、 この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、 やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、 悲しそうな御顔をなさリながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。 自分ばかり地獄からぬけ出そうとすると、犍陀多の無慈悲な心が、 そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、 御釈迦様のお目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。 その玉のような白い花は、 御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら莚を動かして、 そのまん中にある金色の髄からは、 何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。 極楽はもう昼近くになったのでございましょう。



